デザイナー達の基礎知識

いろいろなデザイナーVol.25 ~ 柳 宗理 ~

柳 宗理

今回は、日本のインダストリアルデザインの確立と発展に大きく貢献したデザイナー「柳 宗理(1915年~2011年)」をご紹介いたします。柳宗理は、1915年に東京都渋谷区で生まれます。彼が19歳の時(1934年)に東京美術学校(現・東京芸術大学)洋画科に入学します。在学中にバウハウスにいた水谷武彦の講義を受けた時に彼の人生は大きく変わります。その時に受けた講義は、ル・コルビュジエについてでした。大きな衝撃を受けた彼は、この時からデザインの分野に大きな関心を持つようになります。

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いろいろなデザイナーVol.24 ~ヴィコ・マジストレッティ~

ヴィコ・マジストレッティ

今回は、プラスチック家具にいち早く取り組んだことで知られる「ヴィコ・マジストレッティ(1920年~2006年)」をご紹介いたします。

ヴィコ・マジストレッティは、1920年にイタリアのミラノで生まれました。
建築については、イタリアの名門でもあるミラノ工科大学で学びます。1945年に卒業するとすぐに父親のデザインオフィスに勤務し、デザイナーとしてのキャリアをスタートさせます。勤務し始めてから間もなく、Cassina(カッシーナ)やarflex(アルフレックス)といった一流のインテリアブランドでデザインを手掛けるようになって行きます。

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いろいろなデザイナーVol.23 ~マルコ・ザヌーゾ~

マルコ・ザヌーゾ

今回は、イタリアにおける工業デザインの父として知られる「マルコ・ザヌーゾ(1916年~2001年)」をご紹介します。

マルコ・ザヌーゾは、1916年にイタリアのミラノで生まれます。建築学についてはミラノの名門であるミラノ工科大学で学ぶことになります。ミラノ工科大学を卒業後、ミラノで建築家、都市プランナー及びデザイナーとして活動を始めました。仕事を始めてすぐのころは、雑誌「ドムス」や「カサベラ」の編集者を務めていた時期もありました。

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いろいろなデザイナーVol.22 ~ジオ・ポンティ~

ジオ・ポンティ

今回は、ミラノを拠点に活躍した建築家・デザイナーで「イタリアモダンデザインの父」と呼ばれた「ジオ・ポンティ(1891年~1979年)」をご紹介いたします。
ジオ・ポンティは、1891年にイタリアのミラノで生まれました。(余談ですが、1891年と言えば、バスケットボールが考案された年でもありますよね。)

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いろいろなデザイナーVol.21 ~フランコ・アルビニ~

フランコ・アルビニ

今回は、イタリア合理主義の旗手と言われたデザイナー「フランコ・アルビニ(1905年~1977年)」をご紹介致します。

フランコ・アルビニは、1905年にイタリアのスイス国境近くの町コモで生まれました。建築についてはイタリアの名門であるミラノ工科大学で学び、1929年に卒業すると、デザイン誌「ドムス」の編集長を務めていたジオ・ポンティの事務所で働き始めます。

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いろいろなデザイナーVol.20 ~シャルロット・ペリアン~

シャルロット・ぺリアン

今回は、日本との関係も深く、数々の優れた作品を残したフランスの女性デザイナー「シャルロット・ぺリアン(1903年~1999年)」をご紹介いたします。
シャルロット・ぺリアンは、1903年、フランスのパリで生まれます。両親が服飾関連の仕事に携わっていた関係で、幼いころから様々な素材に囲まれて育ちました。

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いろいろなデザイナーVol.19 ~エリック・グンナール・アスプルンド~

エリック・グンナール・アスプルンド

今回は、北欧近代建築の礎を築き、北欧の建築家たちに大きな影響を与えた「エリック・グンナール・アスプルンド(1885~1940)」をご紹介いたします。

アスプルンドは1885年にスウェーデンのストックホルムで生まれました。少年時代は画家を目指していましたが、父親や絵の先生に反対され夢を断念してしまいます。その後は、スウェーデン王立工科大学に進み建築を学びます。

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いろいろなデザイナーVol.18 ~ジョージ・ネルソン~

ジョージ・ネルソン

今回は、著者、建築家、プロダクトデザイナーなど、デザイン設計活動以外にも多彩な才能を発揮し、20世紀のアメリカモダンデザインの立役者の1人でもある「ジョージ・ネルソン(1908年~1986年)」をご紹介いたします。

ジョージネルソンは1908年にアメリカのコネチカット州ハートフォードで生まれました。1931年にイェール大学で建築学を学び学位を取得。その後も建築について学び、ニューヨークで知人と共に建築事務所を設立しました。

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いろいろなデザイナーVol.16 ~倉俣 史朗~

倉俣史朗

今回は、日本国固有の文化や美意識を感じる独創的なデザインを生み出し続けたデザイナー「倉俣史朗(1934年~1991年)」をご紹介いたします。

倉俣史朗は、東京都文京区本郷で生まれました。生まれた家は第二次世界対戦時の東京空襲で焼けてしまい、戦後は東京都豊島区の駒込に住んでいました。東京工芸高等学校で学び、その後さらに学ぶべく桑沢デザイン研究所のリビングデザイン科へ通います。そこで家具や素材について深く学んだ後、三愛宣伝課、松屋インテリアデザイン室を経て独立を果たします。独立した当初からアクリル素材を好んで使っていた倉俣史朗は、透明感があり浮遊したような作品を多く生み出していきます。この頃、横尾忠則らとコラボレーションした作品も発表し注目を集めるようになります。

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いろいろなデザイナーVol.15 ~イサム・ノグチ~

野口 勇

今回は、20世紀を代表する彫刻家であり、モニュメントや舞台美術、家具、照明など幅広い分野に置いて活躍した「イサム・ノグチ(1904年~1988年)」をご紹介いたします。

イサム・ノグチは1904年に、日本人の父とアメリカ人の母の間にアメリカのロサンゼルスで生まれました。イサム・ノグチが3歳の頃に来日し、父と同居します。その後神奈川県茅ケ崎に転居し幼少期を過ごすことになります。その後、彼が13歳の時に渡米することにンりますが、これは母親の意向だったとも言われています。

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いろいろなデザイナーVol.14 ~チャールズ・レニー・マッキントッシュ~

チャールズ・レニー・マッキントッシュ

今回は、アーツ&クラフツ運動の推進者であり、スコットランドにおけるアール・ヌーヴォーの提唱者の一人でもあるデザイナー「チャールズ・レニー・マッキントッシュ(1868年~1928年)」をご紹介いたします。

マッキントッシュは、1868年にスコットランドのグラスゴーで生まれました。小さいころからスコットランドの風土に触れ、多くのスケッチを書いていました。16歳の時、建築家を目指す為、グラスゴーの建築家の下に弟子入りします。同時期に美術学校の夜間部にデザインとアートを勉強するために入学しました。

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いろいろなデザイナーVol.13 ~ヴェルナー・パントン~

ヴェルナー・パントン

今回は、卓越した色彩構成と近未来的な空間構成で、モダンデザイン史に大きな影響を与えたデザイナー「ヴェルナー・パントン(1926年~1998年」をご紹介いたします。

パントンは、1926年デンマークで生まれました。最初は建築ではなく、デンマークのオーデンセでアーティストとして活躍していました。その後、コペンハーゲンにある王立美術アカデミーで建築を学び、1951年に卒業します。在学中の1950年からは、同じデンマーク生まれのデザイナーであるアルネ・ヤコブセンやポール・ヘニングセンと共に仕事をし、伝統的なデンマークデザインについて学びました。

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いろいろなデザイナーVol.12 ~ハリー・ベルトイア~

ハリー・ベルトイア

今回は、ミッドセンチュリーを代表するデザイナーであり、線の魔術師の異名をもつデザイナー「ハリー・ベルトイア(1915年〜1978年)」をご紹介いたします。ハリー・ベルトイアと聞いても、「??」となってしまう方も多いかもしれませんが、彼のデザインした椅子を見れば必ずわかるはずです。

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いろいろなデザイナーVol.11 ~エーロ・サーリネン~

エーロ・サーリネン

今回は、フィンランドに生まれ、後にアメリカで建築家・プロダクトデザイナーとして活躍した「エーロ・サーリネン(1910年〜1961年)」をご紹介いたします。

エーロ・サーリネンは、1910年に建築家のエリエル・サーリネンの子として、フィンランドのヘルシンキで生まれました。父のエリエルは。フィンランドでも有名な建築家で、パリ万博のフィンランドパビリオンの建築やヘルシンキ中央駅周辺の都市計画などを手掛けました。

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いろいろなデザイナーVol.10 ~チャールズ・イームズ~

チャールズ・イームズ

今回は、建築や家具デザインだけでなく映像作家でもあった「チャールズ・イームズ(1907年~1978年)」をご紹介いたします。

チャールズ・イームズ(正式には、チャールズ・オーモンド・イームズ Jr)は1907年、アメリカ合衆国ミズーリ州セントルイスで生まれました。幼いころに父を亡くし、祖母の家に移り住んでいたチャールズは、写真を趣味としていた父が残した機材を使い、写真撮影を始め徐々に興味を持っていきます。高校ではアルバイトで製図工見習いとして勤めていて、ここで設計や製図の知識を身に着けました。

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いろいろなデザイナーVol.9 ~ヘリット・トーマス・リートフェルト~

今回は、天才建築家とも、偉大な家具デザイナーとも呼ばれているオランダ人デザイナー「ヘリット・トーマス・リートフェルト(1888年~1964年)」をご紹介します。

リートフェルトは、1888年、運河の美しいオランダ・ユトレヒトで生まれました。
父は家具職人で、12歳のころから父の工房で修業を積んでいました。父の作る家具は優雅な伝統的家具。その技術を学びながらもどこかで違和感を感じていたリートフェルトは、市内のアトリエで働きながら美術学校に通い絵画や建築の基礎を学びます。そこには今までに触れることができなかった新しい芸術がありました。
そこからリートフェルトの家具に対する考えに変化が起こります。
幼い頃より学んできた伝統的な家具ではなく、廉価で飾らない簡素なデザイン、そして抽象画のような色彩のコントラスト。彼は職人でありながら、だれにでも手の届く、安価で機能的な家具を作ろうとしました。
1911年には自らデザインするキャビネットを作る会社を設立。経営をしながら建築を勉強しその勉強を通じて、国際活動をしていた画家、建築家、デザイナーからなる「デ・ステイル」の創立者らと知り合います。そして建築の勉強で学んだ、「ダボ継ぎ」はさらに彼の世界を広げていきます。
レッド&ブルーチェア
28歳の時、リートフェルトの代表作の椅子が完成します。それが『レッド&ブルーチェア』の原型。角材と板のみで組まれたこの椅子は、当初色は塗られていませんでした。色を塗るきっかけとなったのは「デ・ステイル」の活動を通して知り合った画家からでした。画家に感化されたリートフェルトは色が塗られていなかった椅子に色を塗ろうと決意。それが現在の「レッド&ブルーチェア」になります。
このレッド&ブルーチェアは、後に世界遺産となる『シュローダー邸』への切っ掛けともなります。椅子と同じように面と線を中心とした空間造り、可動式の間仕切りによって空間は変幻自在に姿を変えることもできます。
その後、ジグザグチェア等多くの家具や建築物を生み出したリートフェルトは1964年にこの世を去ります。晩年まで絶えず手を動かしながら考え続けたリートフェルト。天才建築家、偉大なる家具デザイナーとも呼ばれたリートフェルトは、現代にも多大な影響を与えています。
ハプセント

いろいろなデザイナーVol.8 ~アルネ・ヤコブセン~

今回は1度は座ったことがあるはずの椅子「アントチェア」をデザインした「アルネ・ヤコブセン(1902年~1971年)」について紹介したいと思います。
アルネ・ヤコブセンのフルネームは「アーネ・イミール・ヤコブセン」と言います。
1902年にデンマークのコペンハーゲンで生まれます。
最初は画家を目指していましたが、両親の反対を受け断念。その後、友人の建築家に絵の才能を認められ建築の道を勧められます。
1924年にデンマーク王立芸術アカデミーに入学、在学中にパリ万博のデンマーク館に使用する椅子の設計を手掛けています。
1929年には友人の建築家とモダニズムの形式をとった未来の家を発表します。この作品がデンマーク国内に置いて高く評価され注目を集めます。以降は住宅の設計依頼が増え始めたため事務所を設立。数々の住宅を手掛けていくことになります。
アルネ・ヤコブセン
第二次大戦中は、設計などはほとんど手掛けることはありませんでしたが、亡命先のスウェーデンから帰国後徐々に仕事を再開していきます。そして1950年ごろから世界的な評価を受けることになる家具デザインをスタートさせます。そのスタイルは1952年に作られた「アントチェア」で確立されます。

アントチェアは座面から背もたれに至るまでを成型合板で制作し、脚はスチールパイプを使うというものでした。コスト面でも低く抑えることができ、さらに座面から背もたれに至るまでの曲線が座っている人の姿勢にも自然にフィットし、何とも言えない心地よさを感じることができます。現在でも非常に人気のある椅子として知られています。

アントチェアの発表後、「セブンチェア」「スワンチェア」「エッグチェア」と続けて発表していきます。これらの椅子はホテル等にも置かれ高く評価されます。

ヤコブセンは、建築や家具だけでなく、照明や時計に至るまで様々な物をデザインしてきました。機能主義をポリシーとし余計な装飾は行わず、使い勝手を考えた作品を多く残しています。
今でも世界中で使われているのも、この使い勝手を考えたデザインだからこそなのかもしれませんね。

 

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いろいろなデザイナーVol.7 ~フランク・ロイド・ライト~

フランク・ロイド・ライト

今回は、以前にご紹介した「ル・コルビュジエ」と「ミース・ファン・デル・ローエ」らと共に「近代建築の三大巨匠」として位置づけられる人物「フランク・ロイド・ライト(1867年~1959年)」をご紹介します。

フランク・ロイド・ライトは、1867年アメリカのウィスコンシン州で生まれました。大学で土木科に通いますが中途退学してしまい、シカゴへ移住し叔父の紹介で建築事務所で働き始めます。しかしその事務所は1年ほどで辞めてしまいます。次に働き始めたのは、ダンクマール・アドラーとルイス・サイヴァンが共同して設立した事務所アドラー=サリヴァン事務所。ここでサイヴァンに才能を見込まれ、ほとんどの住宅設計を任せられます。フランク・ロイド・ライトは生涯にわたりサイヴァンをLieber Meister (愛する師匠)と呼んで尊敬していました。

1893年に独立し、シカゴの中心で長期に渡る建築デザインの仕事を始めます。その後、低迷期等を経て様々な建築物を手掛けていきます。そして、1914年に知人であった林愛作から帝国ホテルの新館設計の依頼を受けます。

ライトは建設に使う石材から調度品に使う木材の選定に至るまで管理をしました。(大規模なホテルで、全館にスチーム暖房を世界で初めて取り入れたのが帝国ホテルでした。)幾度となく来日し仕事を進めますが、大幅な予算オーバーや工期の遅れなど様々な問題で経営陣と衝突。ついにはこのプロジェクトから外れることになり、弟子の遠藤新に引き継がれ1923年に竣工となります。

フランク・ロイド・ライト

日本から帰国したライトは、建築以外にも家具や照明のデザインも手掛けるようになります。その時に生まれたのが「TALIESINタリアセン)」シリーズです。照明は知っているけど、これがフランク・ロイド・ライトの作品だと知っている人は少ないのではないでしょうか。

そして1930年後半に手掛けたカウフマン邸落水荘)はあまりにも有名ですよね。この邸宅の建設で用いられたのが「カンチレバー(片持ち梁)」方式でした。この方式は橋の建設にも使われていますよね。70歳を過ぎたライトは、この後も非常に精力的に活動し数々の建築を手掛けます。生涯で手掛けた建築物は1,000件以上とも言われており、まさに建築界の巨匠と言う名にふさわしい功績を残しています。

 

 

ハプセント

いろいろなデザイナーVol.5 ~ポール・ヘニングセン~

今回は、照明メーカーのルイスポールセンlouis poulsen)の代表的デザイナー「ポール・ヘニングセン(1894年~1967年)」をご紹介します。
言わずと知れた照明デザインの巨匠!ポール・ヘニングセン。彼は1894年にデンマークのコペンハーゲンで生まれました。1917年、大学卒業後には建築系の会社に就職しましたが、そこで徐々に照明の魅力に惹かれていきます。少しずつ自分でデザインした照明を制作していたヘニングセンは、1925年にデンマークが参加したパリ工芸博覧会の開催に先立ち開かれていた照明デザインコンペで入選し、そこでルイスポールセン社との協力を開始していきます。協力を開始したばかりのルイスポールセン社と共同で、コペンハーゲンにある展示会場の照明デザイン契約を取得します。この展示会場での照明デザインで、現在でも非常に人気のある「PH5」の原型となる照明が誕生しました。PH5とは、「対数螺旋」という独特のカーブを持った大きさの異なるシェードを3枚使用し、ホワイト電球を見えなくすることで直接光が目に入らず、どこから見てもまぶしさを感じさせない工夫がされており、真下を照らすだけでなく上部や横など空間全体にやさしい光を届けてくれる照明です。ポール・ヘニングセン

第二次世界大戦中はスウェーデンに亡命しますが、ルイスポールセン社との協力関係は継続されており、その関係はヘニングセンが亡くなるまで続きました。

ヘニングセンは、20世紀のデンマーク文化に多大な影響を与えた偉大な人物の一人であり、生涯で200種類以上の照明をデザインしました。彼は単なる照明器具のバリエーションではなく、その光で照らしだされる人物や物、空間を理想的に見せるための「良質な光」の追求でした。現在では当たり前となっている光の色、グレア、陰影といったような基本事項をキーワードとしたヘニングセンの光に関する考察は、今日の照明文化においてもなお、重要な意義を持ち続けています。
ポール・ヘニングセンが活躍していたルイスポールセン社は、非常に美しく綺麗な照明が多くあります。また機会があればこのルイスポールセン社については書いていこうと思います。

 

ハプセント

いろいろなデザイナーVol.4 ~ル・コルビュジエ(後編)~

今回は、前回途中までの紹介となった「ル・コルビュジエ」の続きを書いていきます。
前回は、ル・コルビュジエの36歳までの物語を紹介しましたが、今回は晩年に至るまでを紹介します。
1922年の著作「建築をめざして」以降、世界から注目を集めるようになったコルビュジエは、1925年のパリ万博で「レスプリ・ヌーヴォー館」を設計し、同万博でパリ市街を超高層ビルで建て替えるという大胆な都市改造案「
ヴォアザン計画」を発表しました。1930年には「輝く都市」を発表しますが、この2つの案は共通しており、都市中心部に超高層ビルを建て、周辺に緑地を作るというもの。
ヴォアザン計画ヴォアザン計画では、パリの街をベースに計画案が発表されています。
内容は、古い街や建築物を取り壊し新しい幹線道路を作ることから始まります。幹線道路で仕切られた各ブロックには超高層ビルを建て、事務所や住宅を入れます。このように働く場所と暮らす場所を隣接させることにより効率の良い生活環境を実現するという意図がありました。一番のポイントとなったのは容積率の大幅なアップに伴い、周りの土地が空くこと。空いた土地をすべて緑地にしてしまうという考えでした。今ではこの考えに近い都市計画を行っているところもあります。緑を増やし、街の空気や気温上昇への対策としていますよね。
ヴォアザンとは自動車会社の名前ですが、コルビュジェが自身の考えを持ち込み、その考えに賛同したヴォアザン社がスポンサーになったことでつけられました。実は、シトロエンやプジョーにも声を掛けていたと言われています。
実際にはこの計画が実現することはありませんでしたが、これ以降の都市計画に大きな影響を与えています。「輝く都市」は、1933年に開催された近代建築国際会議で採択された「アテネ憲章」の理念にも影響を与えています。
サヴォア邸1930年以降、建築分野でさらに積極的に動いていきます。
1931年に竣工した「サヴォア邸」はル・コルビュジエの主張する「近代建築の五原則」を示す典型的なもので、コルビュジエの代表作ともなりました。
(※「近代建築の五原則」とは、「ピロティ」「自由な平面」「自由な立面」「独立骨組みによる水平連続窓」「屋上庭園」を指します。)
その後、ソ連やブラジル、ドイツでも仕事をしています。
第二次世界大戦後、コルビュジエが主張していた「ドミノシステム」に基ずく集合住宅をマルセイユに建設します。
そして、1955年には国立西洋美術館の建設依頼を受け来日。建設予定地を視察後、京都や奈良に出向き帰国します。この来日がコルビュジエの最初で最後の来日となります。1956年に国立西洋美術館の基本設計案、1957年に実施設計案が届き、弟子にあたる前川國男らが建設に着手し今日の国立西洋美術館本館が建てられました。当初のコルビュジエの案は本館の他、講堂と図書館が入る付属棟と、劇場ホール棟を含む大規模な物でしたが、財政難から付属棟と劇場ホールの建設は見送られました。劇場ホールについては、コルビュジエの弟子の一人であった前川國男の設計により東京文化会館として建てられることになります。
グランドコンフォートそして、その日は突然訪れてしまいました。
来日から10年後の1965年、南フランスのカプ・マルタンで海水浴中に心臓発作で死去。享年78歳。
実は、1957年に妻が、1960年に母が相次いで他界。また自身の公的記録を完成させた直後に死亡しており、当時は自殺説も囁かれていました。
近代建築に大きな影響を与えたル・コルビュジエですが、家具の世界にも大きな影響を与えています。
代表作は「LC2Grand Confort )(大いなる快適)」。
この家具はデザイン家具史上、最も大きな功績を残した作品と言われています。その他に「LC4(シェーズロング・ア・リグレージ・コンティニュ)」、「LC1(バスキュラント)」など数多くあります。

数々の功績が称えられたル・コルビュジエは、1997年から発行されているスイス・フラン紙幣に肖像と作品が描かれています。
そして、ル・コルビュジエの作成した図面や建築模型、家具など20点以上がニューヨーク近代美術館(MoMA)に収蔵されています。まさに巨匠の名にふさわしい建築家でありデザイナーですね。

ハプセント

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