デザイナー達の基礎知識

いろいろなデザイナーVol.4 ~ル・コルビュジエ(前編)~

今回は、世界文化遺産で話題の国立西洋美術館を設計した「ル・コルビュジエ」(1887年~1965年)をご紹介します。
ル・コルビュジエの本名は、シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリと言います。
ル・コルビュジェル・コルビュジエは1887年にスイスで生まれました。
父は時計の文字盤職人をしており、コルビュジエも家業を継ぐために時計職人を養成する地元の美術学校に通う事になります。

この美術学校在学中(1907年)に、コルビュジエの才能に気づいた校長の勧めで、別の建築家と共に最初の建築物となる「ファレ邸」の設計を手掛けます。この建築からコルビュジエの建築家としての人生がスタートしました。

1908年にはパリへ行き、鉄筋コンクリートを手掛けていた建築家の下で経験を積みます。その2年後にはドイツへ渡り、さらに経験を積みます。大学などで建築の専門的な勉強を行っていなかったコルビュジエは、実地を通して勉強をし短期間でたくさんの経験を積んで行きます。
1914年には、鉄筋コンクリートによる住宅建設方法である「ドミノシステム」を発表します。
このドミノシステムとは、今では当たり前のように考えられているもので、建築はスラブとそれを支える柱、階を繋ぐための階段から成るとし、住宅を効率よく生産するために考えられたもの。現代のプレハブ構造の基礎となりました。
その後、1920年に仲間と共に雑誌「レスプリ・ヌーヴォー」を創刊します。このころからル・コルビュジエと言うペンネームを使い始めます。(この名前は、祖先の名前から付けそうです。)

1922年に従兄弟と共に事務所を構えます。その1年後の1923年に雑誌で掲載してきた自身の記事をまとめた著書「建築をめざして」を発表します。この著書の中で「住宅は住むための機会である(machines à habiter)」と残し、彼の建築思想を代表する言葉となりました。この著書は世界中の建築家から注目を集めたことでも知られています。
このときコルビュジエは36歳。エネルギッシュですよね。

コルビュジエについてはまだまだ書いておかなければいけない事がありますが、かなり長くなってしまうので、続きは次回という事で!

 

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いろいろなデザイナーVol.3 ~ミース・ファン・デル・ローエ~

今回は、美術館から住宅まで幅広い場所で使われている椅子「バルセロナチェア」のデザイナー「ミース・ファン・デル・ローエ」(1886年~1969年)をご紹介します。
ミース・ファン・デル・ローエ(ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ)は1886年3月にドイツで生まれました。
彼は大学で建築知識を学ぶことはなく、地元の職業訓練学校で製図工の教育を受けました。しかし、最初に勤務したのは全く別のもので、漆喰装飾のデザイナーとして勤務しています。
ミースファンデルローエ
その後、建築事務所に転職し、そこからミース・ファン・デル・ローエの人生が大きく変化して行きます。
1907年に最初に手掛けたリール邸が高く評価され、ドイツの有名建築家ペーター・ベーレンスの事務所で勤務するようになります。
そして、1929年にはバルセロナで万博が開催されますが、そこでバルセロナパビリオンの建物を建設。この建物で使うための椅子も手がけました。それが有名な「バルセロナチェア」です。
建物は、万博終了後取り壊されましたが、1980年代後半に復元されて、ミース・ファン・デル・ローエの記念館として使われています。
ミース・ファン・デル・ローエは、モダニズム建築を代表するデザイナーで、“Less is more.” (より少ないことは、より豊かなこと)という標語でも知られています。柱と梁によるラーメン構造の均質な構造体が、その内部にあらゆる機能を許容するという意味のユニヴァーサル・スペースという概念を提示しました。
ル・コルビュジェフランク・ロイド・ライトと共に、近代建築の三大巨匠と言われている人物です。

 

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いろいろなデザイナーVol.2 ~ヨーゼフ・ホフマン~

家具照明等多くの物がインテリアに用いられています。それらは多くのデザイナーの手によって生み出されました。
このシリーズではそのデザイナー達をご紹介していきます。
第2回目は、モダンデザインへの道を切り拓いたウィーン分離派の創設者の一人「ヨーゼフ・ホフマン」(1870年~1956年)をご紹介します。
ヨーゼフ・ホフマンは1870年にチェコで生まれました。
チェコ共和国第2の都市ブルノにある国立工芸学校に学び、卒業後は軍事施設の建設局に勤めました。その後建設局を退局し、ウィーンの美術学校に進学。オットー・ワーグナーの下で腕を磨きました。
1897年にはオルブリッヒらとともにウィーン分離派を立ち上げることになります。ウィーン分離派の活動は、アーツ・アンド・クラフツ、アール・ヌーボーなどの影響を受け、モダンデザインへの道を切り開きました。分離派の中心メンバーとして活躍したホフマンでしたが、1905年にウィーン分離派を離脱します。分離派を脱退する直前には、仲間と共にウィーンに工房を設立し、多くの作品を制作しました。
ヨーゼフ・ホフマン
それ以降は長年にわたりウィーン芸術工芸学校で教鞭をとり、オーストリア工芸連盟の発起人の1人にもなっています。
1936年にウィーン芸術工芸学校を退いた後は年金生活に入ります。

ホフマンの様式は、現実的かつ実用的なものに絞られ、多くのデザイナーの手本にもなりました。それが、国際ビエンナーレのオーストラリア代表や芸術審議会の委員など、公的な役職を歴任したことにも表れています。

 

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いろいろなデザイナーVol.1 ~ミヒャエル・トーネット~

家具照明等多くの物がインテリアに用いられています。それらは多くのデザイナーの手によって生み出されました。
このシリーズではそのデザイナー達をご紹介していきます。
第1回目は、家具に大きな変革をもたらした曲木の技術を用いた椅子を制作した「ミヒャエル・トーネット」(1796年~1871年)をご紹介します。
ミヒャエル・トーネットミヒャエルトーネットは、ドイツ西部にあるボッパルトでなめし革業を営んでいたフランツ・アントン・トーネットの息子として1796年に生まれました。
建具職人の下で修行をした後、1819年に自身の家具工房を開設。
その後、積層材を用いた木材加工の研究を始め、木を蒸気で蒸して曲げる加工方法を開発します。
そして、1842年にこの曲木技術の特許を取得しました。
曲木技術を用いた家具が世界的にも有名な『No.14』(現在はNo.214)です。この椅子は世界で5000万脚以上が生産され、様々な場面で用いられています。(工業製品で最も成功した製品とも言われています。)現在も、カフェなどでよく見かけますよね。
No.14の開発後、1849年 ウィーンに工房を開設。現在のトーネット社の基礎を築きました。
それまで、オーダーメイドが主流だった家具の世界に、家具を量産するという近代的なシステムを作り上げたのもこのトーネットと言われています。
トーネットが研究していた積層材を用いた技術は、曲木だけでなくその後の家具業界にも大きな変革をもたらします。それが成型合板です。
成型合板を用いた家具はたくさん作られましたが、それはまたの機会に紹介いたします。
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