ル・コルビュジエ

いろいろなデザイナーVol37 ~アルヴァロ・シザ~

アルヴァロ・シザ

今回は、ポルトガル随一の国際的建築家であり、国を代表する存在でもある「アルヴァロ・シザ(1933年~)」をご紹介いたします。

アルヴァロ・シザは、1933年にポルトガルの北部にある町、マトジーニョスで生まれました。1955年にポルト大学の建築学部を卒業後、建築家としてすでに有名だったフェルナンド・ターヴォラの事務所で働きだします。この事務所ではわずか3年しか在籍しておらず、その後58年には自分の事務所を設立します。

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いろいろなデザイナーVol.25 ~ 柳 宗理 ~

柳 宗理

今回は、日本のインダストリアルデザインの確立と発展に大きく貢献したデザイナー「柳 宗理(1915年~2011年)」をご紹介いたします。柳宗理は、1915年に東京都渋谷区で生まれます。彼が19歳の時(1934年)に東京美術学校(現・東京芸術大学)洋画科に入学します。在学中にバウハウスにいた水谷武彦の講義を受けた時に彼の人生は大きく変わります。その時に受けた講義は、ル・コルビュジエについてでした。大きな衝撃を受けた彼は、この時からデザインの分野に大きな関心を持つようになります。

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いろいろなデザイナーVol.19 ~エリック・グンナール・アスプルンド~

エリック・グンナール・アスプルンド

今回は、北欧近代建築の礎を築き、北欧の建築家たちに大きな影響を与えた「エリック・グンナール・アスプルンド(1885~1940)」をご紹介いたします。

アスプルンドは1885年にスウェーデンのストックホルムで生まれました。少年時代は画家を目指していましたが、父親や絵の先生に反対され夢を断念してしまいます。その後は、スウェーデン王立工科大学に進み建築を学びます。

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いろいろなデザイナーVol.4 ~ル・コルビュジエ(後編)~

今回は、前回途中までの紹介となった「ル・コルビュジエ」の続きを書いていきます。
前回は、ル・コルビュジエの36歳までの物語を紹介しましたが、今回は晩年に至るまでを紹介します。
1922年の著作「建築をめざして」以降、世界から注目を集めるようになったコルビュジエは、1925年のパリ万博で「レスプリ・ヌーヴォー館」を設計し、同万博でパリ市街を超高層ビルで建て替えるという大胆な都市改造案「
ヴォアザン計画」を発表しました。1930年には「輝く都市」を発表しますが、この2つの案は共通しており、都市中心部に超高層ビルを建て、周辺に緑地を作るというもの。
ヴォアザン計画ヴォアザン計画では、パリの街をベースに計画案が発表されています。
内容は、古い街や建築物を取り壊し新しい幹線道路を作ることから始まります。幹線道路で仕切られた各ブロックには超高層ビルを建て、事務所や住宅を入れます。このように働く場所と暮らす場所を隣接させることにより効率の良い生活環境を実現するという意図がありました。一番のポイントとなったのは容積率の大幅なアップに伴い、周りの土地が空くこと。空いた土地をすべて緑地にしてしまうという考えでした。今ではこの考えに近い都市計画を行っているところもあります。緑を増やし、街の空気や気温上昇への対策としていますよね。
ヴォアザンとは自動車会社の名前ですが、コルビュジェが自身の考えを持ち込み、その考えに賛同したヴォアザン社がスポンサーになったことでつけられました。実は、シトロエンやプジョーにも声を掛けていたと言われています。
実際にはこの計画が実現することはありませんでしたが、これ以降の都市計画に大きな影響を与えています。「輝く都市」は、1933年に開催された近代建築国際会議で採択された「アテネ憲章」の理念にも影響を与えています。
サヴォア邸1930年以降、建築分野でさらに積極的に動いていきます。
1931年に竣工した「サヴォア邸」はル・コルビュジエの主張する「近代建築の五原則」を示す典型的なもので、コルビュジエの代表作ともなりました。
(※「近代建築の五原則」とは、「ピロティ」「自由な平面」「自由な立面」「独立骨組みによる水平連続窓」「屋上庭園」を指します。)
その後、ソ連やブラジル、ドイツでも仕事をしています。
第二次世界大戦後、コルビュジエが主張していた「ドミノシステム」に基ずく集合住宅をマルセイユに建設します。
そして、1955年には国立西洋美術館の建設依頼を受け来日。建設予定地を視察後、京都や奈良に出向き帰国します。この来日がコルビュジエの最初で最後の来日となります。1956年に国立西洋美術館の基本設計案、1957年に実施設計案が届き、弟子にあたる前川國男らが建設に着手し今日の国立西洋美術館本館が建てられました。当初のコルビュジエの案は本館の他、講堂と図書館が入る付属棟と、劇場ホール棟を含む大規模な物でしたが、財政難から付属棟と劇場ホールの建設は見送られました。劇場ホールについては、コルビュジエの弟子の一人であった前川國男の設計により東京文化会館として建てられることになります。
グランドコンフォートそして、その日は突然訪れてしまいました。
来日から10年後の1965年、南フランスのカプ・マルタンで海水浴中に心臓発作で死去。享年78歳。
実は、1957年に妻が、1960年に母が相次いで他界。また自身の公的記録を完成させた直後に死亡しており、当時は自殺説も囁かれていました。
近代建築に大きな影響を与えたル・コルビュジエですが、家具の世界にも大きな影響を与えています。
代表作は「LC2Grand Confort )(大いなる快適)」。
この家具はデザイン家具史上、最も大きな功績を残した作品と言われています。その他に「LC4(シェーズロング・ア・リグレージ・コンティニュ)」、「LC1(バスキュラント)」など数多くあります。

数々の功績が称えられたル・コルビュジエは、1997年から発行されているスイス・フラン紙幣に肖像と作品が描かれています。
そして、ル・コルビュジエの作成した図面や建築模型、家具など20点以上がニューヨーク近代美術館(MoMA)に収蔵されています。まさに巨匠の名にふさわしい建築家でありデザイナーですね。

ハプセント

いろいろなデザイナーVol.4 ~ル・コルビュジエ(前編)~

今回は、世界文化遺産で話題の国立西洋美術館を設計した「ル・コルビュジエ」(1887年~1965年)をご紹介します。
ル・コルビュジエの本名は、シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリと言います。
ル・コルビュジェル・コルビュジエは1887年にスイスで生まれました。
父は時計の文字盤職人をしており、コルビュジエも家業を継ぐために時計職人を養成する地元の美術学校に通う事になります。

この美術学校在学中(1907年)に、コルビュジエの才能に気づいた校長の勧めで、別の建築家と共に最初の建築物となる「ファレ邸」の設計を手掛けます。この建築からコルビュジエの建築家としての人生がスタートしました。

1908年にはパリへ行き、鉄筋コンクリートを手掛けていた建築家の下で経験を積みます。その2年後にはドイツへ渡り、さらに経験を積みます。大学などで建築の専門的な勉強を行っていなかったコルビュジエは、実地を通して勉強をし短期間でたくさんの経験を積んで行きます。
1914年には、鉄筋コンクリートによる住宅建設方法である「ドミノシステム」を発表します。
このドミノシステムとは、今では当たり前のように考えられているもので、建築はスラブとそれを支える柱、階を繋ぐための階段から成るとし、住宅を効率よく生産するために考えられたもの。現代のプレハブ構造の基礎となりました。
その後、1920年に仲間と共に雑誌「レスプリ・ヌーヴォー」を創刊します。このころからル・コルビュジエと言うペンネームを使い始めます。(この名前は、祖先の名前から付けそうです。)

1922年に従兄弟と共に事務所を構えます。その1年後の1923年に雑誌で掲載してきた自身の記事をまとめた著書「建築をめざして」を発表します。この著書の中で「住宅は住むための機会である(machines à habiter)」と残し、彼の建築思想を代表する言葉となりました。この著書は世界中の建築家から注目を集めたことでも知られています。
このときコルビュジエは36歳。エネルギッシュですよね。

コルビュジエについてはまだまだ書いておかなければいけない事がありますが、かなり長くなってしまうので、続きは次回という事で!

 

ハプセント

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