今回は、日本との関係も深く、数々の優れた作品を残したフランスの女性デザイナー「シャルロット・ぺリアン(1903年~1999年)」をご紹介いたします。
シャルロット・ぺリアンは、1903年、フランスのパリで生まれます。両親が服飾関連の仕事に携わっていた関係で、幼いころから様々な素材に囲まれて育ちました。
パリの装飾美術中央連合学校で様々なことを学び1926年に卒業。その後、自分のアトリエを構え、様々な展覧会に家具を出品して行きます。1927年には、芸術の都パリを象徴するような大きな展覧会でもある「サロン・ドートヌンヌ」に出品。出品した「屋根裏のバー」が大きな反響を呼び、一躍時の人となります。この作品がきっかけとなり、ル・コルビュジエのアトリエに入所。このアトリエで手掛けた、鉄やアルミニュウム、ガラスと言った新しい素材を使用した内装は、住宅に新しい概念をもたらしました。このアトリエでは、後の彼女の価値観を大きく変える要因となる人物である、建築家の坂倉準三や前川國男らと机を並べていました。
コルビュジエのアトリエには10年余り在籍し、その後独立。独立後もコルビュジエやジャンヌレらとの関係は良好で、いくつもの作品を共同で制作していきます。
1940年には、坂倉準三らの推薦により日本の輸出工芸指導の装飾美術顧問として日本へ招かれます。海外向けの工芸品の改良・指導を任されたペリアンは、1年余りの滞在期間中、日本各地を柳宗理の案内でまわり、日本の美意識や伝統に深い感銘を受け、その後の作品に強く反映して行きます。その滞在時にヒントを得て作られたのが、竹製のシェーズロングでした。この作品は木製の台座に、竹で作られた椅子を載せたデザインで、ルコルビュジエらと共に作り上げたシェーズロングを原型に作り上げた作品でした。
その後、第二次世界大戦がはじまると、一旦ベトナムに拠点を移し、1946年にパリに戻ることになります。
パリに戻った後も、コルビュジエらと共に制作を続けて行きます。そして1953年に再来日し作品を制作。1955年に東京の高島屋で「芸術の綜合への提案―コルビュジエ、レジェ、ペリアン3人展」を開催します。この展覧会では、日本の文楽から発想を得た「オンブル(影)」をはじめ、違い棚をヒントにしたニュアージュ(書架(雲))等、以前訪れた時の体験をもとにしたデザインを数多く発表しました。
大成功を収めた3人展の後、1959年にはエールフランスの東京営業所の内装デザインを担当。現場の建築統括責任者に古くからの友人である坂倉準三を指名します。斬新なカウンターにはチャールズ&レイイームズの椅子を採用し話題を呼びました。その後は、在仏日本大使公邸の内装デザインや、パリにあった日本企業の内装デザインも手掛けています。
1993年には、ユネスコのパリ本部広場で開催された日本文化祭に「茶室」を出展。公のものとしては、この作品がぺリアンの最後の作品となってしまいました。そして、1999年パリにて逝去。享年96歳。
多くの日本人デザイナーに多大な影響を与えたシャルロット・ぺリアン。初来日以降、度々日本を訪れ日本家屋や伝統、習慣などから様々なヒントを得て、作品を作り続けて行きました。
日本を深く理解し愛してくれたデザイナーであり、それらを世界へと発信し続けてくれた彼女へのリスペクトはこれからも続くはずです。
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