建築家

いろいろなデザイナーVol37 ~アルヴァロ・シザ~

アルヴァロ・シザ

今回は、ポルトガル随一の国際的建築家であり、国を代表する存在でもある「アルヴァロ・シザ(1933年~)」をご紹介いたします。

アルヴァロ・シザは、1933年にポルトガルの北部にある町、マトジーニョスで生まれました。1955年にポルト大学の建築学部を卒業後、建築家としてすでに有名だったフェルナンド・ターヴォラの事務所で働きだします。この事務所ではわずか3年しか在籍しておらず、その後58年には自分の事務所を設立します。

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ヤコブセンがデザインした成型合板を利用して作られたチェア

セブンチェア(ウッド)

成型合板と言えば、チャールズ&レイ・イームズですよね。LCWシェルチェア等、様々なデザインを発表しましたが、今回ご紹介するチェアは、このイームズデザインではありません。このチェアは「セブンチェア」と呼ばれていて、デンマークを代表するデザイナーであるアルネ・ヤコブセンがデザインしたチェアのリプロダクト品です。

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いろいろなデザイナーVol.22 ~ジオ・ポンティ~

ジオ・ポンティ

今回は、ミラノを拠点に活躍した建築家・デザイナーで「イタリアモダンデザインの父」と呼ばれた「ジオ・ポンティ(1891年~1979年)」をご紹介いたします。
ジオ・ポンティは、1891年にイタリアのミラノで生まれました。(余談ですが、1891年と言えば、バスケットボールが考案された年でもありますよね。)

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いろいろなデザイナーVol.7 ~フランク・ロイド・ライト~

フランク・ロイド・ライト

今回は、以前にご紹介した「ル・コルビュジエ」と「ミース・ファン・デル・ローエ」らと共に「近代建築の三大巨匠」として位置づけられる人物「フランク・ロイド・ライト(1867年~1959年)」をご紹介します。

フランク・ロイド・ライトは、1867年アメリカのウィスコンシン州で生まれました。大学で土木科に通いますが中途退学してしまい、シカゴへ移住し叔父の紹介で建築事務所で働き始めます。しかしその事務所は1年ほどで辞めてしまいます。次に働き始めたのは、ダンクマール・アドラーとルイス・サイヴァンが共同して設立した事務所アドラー=サリヴァン事務所。ここでサイヴァンに才能を見込まれ、ほとんどの住宅設計を任せられます。フランク・ロイド・ライトは生涯にわたりサイヴァンをLieber Meister (愛する師匠)と呼んで尊敬していました。

1893年に独立し、シカゴの中心で長期に渡る建築デザインの仕事を始めます。その後、低迷期等を経て様々な建築物を手掛けていきます。そして、1914年に知人であった林愛作から帝国ホテルの新館設計の依頼を受けます。

ライトは建設に使う石材から調度品に使う木材の選定に至るまで管理をしました。(大規模なホテルで、全館にスチーム暖房を世界で初めて取り入れたのが帝国ホテルでした。)幾度となく来日し仕事を進めますが、大幅な予算オーバーや工期の遅れなど様々な問題で経営陣と衝突。ついにはこのプロジェクトから外れることになり、弟子の遠藤新に引き継がれ1923年に竣工となります。

フランク・ロイド・ライト

日本から帰国したライトは、建築以外にも家具や照明のデザインも手掛けるようになります。その時に生まれたのが「TALIESINタリアセン)」シリーズです。照明は知っているけど、これがフランク・ロイド・ライトの作品だと知っている人は少ないのではないでしょうか。

そして1930年後半に手掛けたカウフマン邸落水荘)はあまりにも有名ですよね。この邸宅の建設で用いられたのが「カンチレバー(片持ち梁)」方式でした。この方式は橋の建設にも使われていますよね。70歳を過ぎたライトは、この後も非常に精力的に活動し数々の建築を手掛けます。生涯で手掛けた建築物は1,000件以上とも言われており、まさに建築界の巨匠と言う名にふさわしい功績を残しています。

 

 

ハプセント

いろいろなデザイナーVol.4 ~ル・コルビュジエ(前編)~

今回は、世界文化遺産で話題の国立西洋美術館を設計した「ル・コルビュジエ」(1887年~1965年)をご紹介します。
ル・コルビュジエの本名は、シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリと言います。
ル・コルビュジェル・コルビュジエは1887年にスイスで生まれました。
父は時計の文字盤職人をしており、コルビュジエも家業を継ぐために時計職人を養成する地元の美術学校に通う事になります。

この美術学校在学中(1907年)に、コルビュジエの才能に気づいた校長の勧めで、別の建築家と共に最初の建築物となる「ファレ邸」の設計を手掛けます。この建築からコルビュジエの建築家としての人生がスタートしました。

1908年にはパリへ行き、鉄筋コンクリートを手掛けていた建築家の下で経験を積みます。その2年後にはドイツへ渡り、さらに経験を積みます。大学などで建築の専門的な勉強を行っていなかったコルビュジエは、実地を通して勉強をし短期間でたくさんの経験を積んで行きます。
1914年には、鉄筋コンクリートによる住宅建設方法である「ドミノシステム」を発表します。
このドミノシステムとは、今では当たり前のように考えられているもので、建築はスラブとそれを支える柱、階を繋ぐための階段から成るとし、住宅を効率よく生産するために考えられたもの。現代のプレハブ構造の基礎となりました。
その後、1920年に仲間と共に雑誌「レスプリ・ヌーヴォー」を創刊します。このころからル・コルビュジエと言うペンネームを使い始めます。(この名前は、祖先の名前から付けそうです。)

1922年に従兄弟と共に事務所を構えます。その1年後の1923年に雑誌で掲載してきた自身の記事をまとめた著書「建築をめざして」を発表します。この著書の中で「住宅は住むための機会である(machines à habiter)」と残し、彼の建築思想を代表する言葉となりました。この著書は世界中の建築家から注目を集めたことでも知られています。
このときコルビュジエは36歳。エネルギッシュですよね。

コルビュジエについてはまだまだ書いておかなければいけない事がありますが、かなり長くなってしまうので、続きは次回という事で!

 

ハプセント

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