デザイナー

いろいろなデザイナーvol.28 〜マルセル・ブロイヤー〜

マルセル・ブロイヤー

今回は、モダニズムの先駆者としても知られるハンガリーのデザイナー「マルセル・ブロイヤー(1902年〜1981年)」をご紹介いたします。

マルセル・ブロイヤーは1902年にハンガリーのバラニャ県の県都であるペーチで生まれました。
1920年には、ヴォルター・グロピウスが校長を務めていたバウハウスへ入学をします。この時のバウハウスは、ドイツのヴァイマルで設立されていました。バウハウスでは家具工房で木工技術とデザイン感覚を養っていきます。

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いろいろなデザイナーVol.27 ~アッキレ・カスティリオーニ~

アッキレ・カスティリオーニ

今回は、デザインの分野においてイタリアの巨匠と称され、称賛の言葉と共に世界的に高い評価を得ているデザイナー「アッキレ・カスティリオーニ(1918年~2002年)」をご紹介いたします。

カスティリオーニは1918年にイタリアのミラノで生まれました。建築学はミラノの名門であるミラノ工科大学で学び、1944年に建築学の学位を取得し卒業します。

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ヤコブセンがデザインした成型合板を利用して作られたチェア

セブンチェア(ウッド)

成型合板と言えば、チャールズ&レイ・イームズですよね。LCWシェルチェア等、様々なデザインを発表しましたが、今回ご紹介するチェアは、このイームズデザインではありません。このチェアは「セブンチェア」と呼ばれていて、デンマークを代表するデザイナーであるアルネ・ヤコブセンがデザインしたチェアのリプロダクト品です。

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いろいろなデザイナーVol.22 ~ジオ・ポンティ~

ジオ・ポンティ

今回は、ミラノを拠点に活躍した建築家・デザイナーで「イタリアモダンデザインの父」と呼ばれた「ジオ・ポンティ(1891年~1979年)」をご紹介いたします。
ジオ・ポンティは、1891年にイタリアのミラノで生まれました。(余談ですが、1891年と言えば、バスケットボールが考案された年でもありますよね。)

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いろいろなデザイナーVol.21 ~フランコ・アルビニ~

フランコ・アルビニ

今回は、イタリア合理主義の旗手と言われたデザイナー「フランコ・アルビニ(1905年~1977年)」をご紹介致します。

フランコ・アルビニは、1905年にイタリアのスイス国境近くの町コモで生まれました。建築についてはイタリアの名門であるミラノ工科大学で学び、1929年に卒業すると、デザイン誌「ドムス」の編集長を務めていたジオ・ポンティの事務所で働き始めます。

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いろいろなデザイナーVol.14 ~チャールズ・レニー・マッキントッシュ~

チャールズ・レニー・マッキントッシュ

今回は、アーツ&クラフツ運動の推進者であり、スコットランドにおけるアール・ヌーヴォーの提唱者の一人でもあるデザイナー「チャールズ・レニー・マッキントッシュ(1868年~1928年)」をご紹介いたします。

マッキントッシュは、1868年にスコットランドのグラスゴーで生まれました。小さいころからスコットランドの風土に触れ、多くのスケッチを書いていました。16歳の時、建築家を目指す為、グラスゴーの建築家の下に弟子入りします。同時期に美術学校の夜間部にデザインとアートを勉強するために入学しました。

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いろいろなデザイナーVol.13 ~ヴェルナー・パントン~

ヴェルナー・パントン

今回は、卓越した色彩構成と近未来的な空間構成で、モダンデザイン史に大きな影響を与えたデザイナー「ヴェルナー・パントン(1926年~1998年」をご紹介いたします。

パントンは、1926年デンマークで生まれました。最初は建築ではなく、デンマークのオーデンセでアーティストとして活躍していました。その後、コペンハーゲンにある王立美術アカデミーで建築を学び、1951年に卒業します。在学中の1950年からは、同じデンマーク生まれのデザイナーであるアルネ・ヤコブセンやポール・ヘニングセンと共に仕事をし、伝統的なデンマークデザインについて学びました。

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いろいろなデザイナーVol.11 ~エーロ・サーリネン~

エーロ・サーリネン

今回は、フィンランドに生まれ、後にアメリカで建築家・プロダクトデザイナーとして活躍した「エーロ・サーリネン(1910年〜1961年)」をご紹介いたします。

エーロ・サーリネンは、1910年に建築家のエリエル・サーリネンの子として、フィンランドのヘルシンキで生まれました。父のエリエルは。フィンランドでも有名な建築家で、パリ万博のフィンランドパビリオンの建築やヘルシンキ中央駅周辺の都市計画などを手掛けました。

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いろいろなデザイナーVol.9 ~ヘリット・トーマス・リートフェルト~

今回は、天才建築家とも、偉大な家具デザイナーとも呼ばれているオランダ人デザイナー「ヘリット・トーマス・リートフェルト(1888年~1964年)」をご紹介します。

リートフェルトは、1888年、運河の美しいオランダ・ユトレヒトで生まれました。
父は家具職人で、12歳のころから父の工房で修業を積んでいました。父の作る家具は優雅な伝統的家具。その技術を学びながらもどこかで違和感を感じていたリートフェルトは、市内のアトリエで働きながら美術学校に通い絵画や建築の基礎を学びます。そこには今までに触れることができなかった新しい芸術がありました。
そこからリートフェルトの家具に対する考えに変化が起こります。
幼い頃より学んできた伝統的な家具ではなく、廉価で飾らない簡素なデザイン、そして抽象画のような色彩のコントラスト。彼は職人でありながら、だれにでも手の届く、安価で機能的な家具を作ろうとしました。
1911年には自らデザインするキャビネットを作る会社を設立。経営をしながら建築を勉強しその勉強を通じて、国際活動をしていた画家、建築家、デザイナーからなる「デ・ステイル」の創立者らと知り合います。そして建築の勉強で学んだ、「ダボ継ぎ」はさらに彼の世界を広げていきます。
レッド&ブルーチェア
28歳の時、リートフェルトの代表作の椅子が完成します。それが『レッド&ブルーチェア』の原型。角材と板のみで組まれたこの椅子は、当初色は塗られていませんでした。色を塗るきっかけとなったのは「デ・ステイル」の活動を通して知り合った画家からでした。画家に感化されたリートフェルトは色が塗られていなかった椅子に色を塗ろうと決意。それが現在の「レッド&ブルーチェア」になります。
このレッド&ブルーチェアは、後に世界遺産となる『シュローダー邸』への切っ掛けともなります。椅子と同じように面と線を中心とした空間造り、可動式の間仕切りによって空間は変幻自在に姿を変えることもできます。
その後、ジグザグチェア等多くの家具や建築物を生み出したリートフェルトは1964年にこの世を去ります。晩年まで絶えず手を動かしながら考え続けたリートフェルト。天才建築家、偉大なる家具デザイナーとも呼ばれたリートフェルトは、現代にも多大な影響を与えています。
ハプセント

いろいろなデザイナーVol.8 ~アルネ・ヤコブセン~

今回は1度は座ったことがあるはずの椅子「アントチェア」をデザインした「アルネ・ヤコブセン(1902年~1971年)」について紹介したいと思います。
アルネ・ヤコブセンのフルネームは「アーネ・イミール・ヤコブセン」と言います。
1902年にデンマークのコペンハーゲンで生まれます。
最初は画家を目指していましたが、両親の反対を受け断念。その後、友人の建築家に絵の才能を認められ建築の道を勧められます。
1924年にデンマーク王立芸術アカデミーに入学、在学中にパリ万博のデンマーク館に使用する椅子の設計を手掛けています。
1929年には友人の建築家とモダニズムの形式をとった未来の家を発表します。この作品がデンマーク国内に置いて高く評価され注目を集めます。以降は住宅の設計依頼が増え始めたため事務所を設立。数々の住宅を手掛けていくことになります。
アルネ・ヤコブセン
第二次大戦中は、設計などはほとんど手掛けることはありませんでしたが、亡命先のスウェーデンから帰国後徐々に仕事を再開していきます。そして1950年ごろから世界的な評価を受けることになる家具デザインをスタートさせます。そのスタイルは1952年に作られた「アントチェア」で確立されます。

アントチェアは座面から背もたれに至るまでを成型合板で制作し、脚はスチールパイプを使うというものでした。コスト面でも低く抑えることができ、さらに座面から背もたれに至るまでの曲線が座っている人の姿勢にも自然にフィットし、何とも言えない心地よさを感じることができます。現在でも非常に人気のある椅子として知られています。

アントチェアの発表後、「セブンチェア」「スワンチェア」「エッグチェア」と続けて発表していきます。これらの椅子はホテル等にも置かれ高く評価されます。

ヤコブセンは、建築や家具だけでなく、照明や時計に至るまで様々な物をデザインしてきました。機能主義をポリシーとし余計な装飾は行わず、使い勝手を考えた作品を多く残しています。
今でも世界中で使われているのも、この使い勝手を考えたデザインだからこそなのかもしれませんね。

 

ハプセント

いろいろなデザイナーVol.4 ~ル・コルビュジエ(後編)~

今回は、前回途中までの紹介となった「ル・コルビュジエ」の続きを書いていきます。
前回は、ル・コルビュジエの36歳までの物語を紹介しましたが、今回は晩年に至るまでを紹介します。
1922年の著作「建築をめざして」以降、世界から注目を集めるようになったコルビュジエは、1925年のパリ万博で「レスプリ・ヌーヴォー館」を設計し、同万博でパリ市街を超高層ビルで建て替えるという大胆な都市改造案「
ヴォアザン計画」を発表しました。1930年には「輝く都市」を発表しますが、この2つの案は共通しており、都市中心部に超高層ビルを建て、周辺に緑地を作るというもの。
ヴォアザン計画ヴォアザン計画では、パリの街をベースに計画案が発表されています。
内容は、古い街や建築物を取り壊し新しい幹線道路を作ることから始まります。幹線道路で仕切られた各ブロックには超高層ビルを建て、事務所や住宅を入れます。このように働く場所と暮らす場所を隣接させることにより効率の良い生活環境を実現するという意図がありました。一番のポイントとなったのは容積率の大幅なアップに伴い、周りの土地が空くこと。空いた土地をすべて緑地にしてしまうという考えでした。今ではこの考えに近い都市計画を行っているところもあります。緑を増やし、街の空気や気温上昇への対策としていますよね。
ヴォアザンとは自動車会社の名前ですが、コルビュジェが自身の考えを持ち込み、その考えに賛同したヴォアザン社がスポンサーになったことでつけられました。実は、シトロエンやプジョーにも声を掛けていたと言われています。
実際にはこの計画が実現することはありませんでしたが、これ以降の都市計画に大きな影響を与えています。「輝く都市」は、1933年に開催された近代建築国際会議で採択された「アテネ憲章」の理念にも影響を与えています。
サヴォア邸1930年以降、建築分野でさらに積極的に動いていきます。
1931年に竣工した「サヴォア邸」はル・コルビュジエの主張する「近代建築の五原則」を示す典型的なもので、コルビュジエの代表作ともなりました。
(※「近代建築の五原則」とは、「ピロティ」「自由な平面」「自由な立面」「独立骨組みによる水平連続窓」「屋上庭園」を指します。)
その後、ソ連やブラジル、ドイツでも仕事をしています。
第二次世界大戦後、コルビュジエが主張していた「ドミノシステム」に基ずく集合住宅をマルセイユに建設します。
そして、1955年には国立西洋美術館の建設依頼を受け来日。建設予定地を視察後、京都や奈良に出向き帰国します。この来日がコルビュジエの最初で最後の来日となります。1956年に国立西洋美術館の基本設計案、1957年に実施設計案が届き、弟子にあたる前川國男らが建設に着手し今日の国立西洋美術館本館が建てられました。当初のコルビュジエの案は本館の他、講堂と図書館が入る付属棟と、劇場ホール棟を含む大規模な物でしたが、財政難から付属棟と劇場ホールの建設は見送られました。劇場ホールについては、コルビュジエの弟子の一人であった前川國男の設計により東京文化会館として建てられることになります。
グランドコンフォートそして、その日は突然訪れてしまいました。
来日から10年後の1965年、南フランスのカプ・マルタンで海水浴中に心臓発作で死去。享年78歳。
実は、1957年に妻が、1960年に母が相次いで他界。また自身の公的記録を完成させた直後に死亡しており、当時は自殺説も囁かれていました。
近代建築に大きな影響を与えたル・コルビュジエですが、家具の世界にも大きな影響を与えています。
代表作は「LC2Grand Confort )(大いなる快適)」。
この家具はデザイン家具史上、最も大きな功績を残した作品と言われています。その他に「LC4(シェーズロング・ア・リグレージ・コンティニュ)」、「LC1(バスキュラント)」など数多くあります。

数々の功績が称えられたル・コルビュジエは、1997年から発行されているスイス・フラン紙幣に肖像と作品が描かれています。
そして、ル・コルビュジエの作成した図面や建築模型、家具など20点以上がニューヨーク近代美術館(MoMA)に収蔵されています。まさに巨匠の名にふさわしい建築家でありデザイナーですね。

ハプセント

いろいろなデザイナーVol.4 ~ル・コルビュジエ(前編)~

今回は、世界文化遺産で話題の国立西洋美術館を設計した「ル・コルビュジエ」(1887年~1965年)をご紹介します。
ル・コルビュジエの本名は、シャルル=エドゥアール・ジャンヌレ=グリと言います。
ル・コルビュジェル・コルビュジエは1887年にスイスで生まれました。
父は時計の文字盤職人をしており、コルビュジエも家業を継ぐために時計職人を養成する地元の美術学校に通う事になります。

この美術学校在学中(1907年)に、コルビュジエの才能に気づいた校長の勧めで、別の建築家と共に最初の建築物となる「ファレ邸」の設計を手掛けます。この建築からコルビュジエの建築家としての人生がスタートしました。

1908年にはパリへ行き、鉄筋コンクリートを手掛けていた建築家の下で経験を積みます。その2年後にはドイツへ渡り、さらに経験を積みます。大学などで建築の専門的な勉強を行っていなかったコルビュジエは、実地を通して勉強をし短期間でたくさんの経験を積んで行きます。
1914年には、鉄筋コンクリートによる住宅建設方法である「ドミノシステム」を発表します。
このドミノシステムとは、今では当たり前のように考えられているもので、建築はスラブとそれを支える柱、階を繋ぐための階段から成るとし、住宅を効率よく生産するために考えられたもの。現代のプレハブ構造の基礎となりました。
その後、1920年に仲間と共に雑誌「レスプリ・ヌーヴォー」を創刊します。このころからル・コルビュジエと言うペンネームを使い始めます。(この名前は、祖先の名前から付けそうです。)

1922年に従兄弟と共に事務所を構えます。その1年後の1923年に雑誌で掲載してきた自身の記事をまとめた著書「建築をめざして」を発表します。この著書の中で「住宅は住むための機会である(machines à habiter)」と残し、彼の建築思想を代表する言葉となりました。この著書は世界中の建築家から注目を集めたことでも知られています。
このときコルビュジエは36歳。エネルギッシュですよね。

コルビュジエについてはまだまだ書いておかなければいけない事がありますが、かなり長くなってしまうので、続きは次回という事で!

 

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いろいろなデザイナーVol.3 ~ミース・ファン・デル・ローエ~

今回は、美術館から住宅まで幅広い場所で使われている椅子「バルセロナチェア」のデザイナー「ミース・ファン・デル・ローエ」(1886年~1969年)をご紹介します。
ミース・ファン・デル・ローエ(ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ)は1886年3月にドイツで生まれました。
彼は大学で建築知識を学ぶことはなく、地元の職業訓練学校で製図工の教育を受けました。しかし、最初に勤務したのは全く別のもので、漆喰装飾のデザイナーとして勤務しています。
ミースファンデルローエ
その後、建築事務所に転職し、そこからミース・ファン・デル・ローエの人生が大きく変化して行きます。
1907年に最初に手掛けたリール邸が高く評価され、ドイツの有名建築家ペーター・ベーレンスの事務所で勤務するようになります。
そして、1929年にはバルセロナで万博が開催されますが、そこでバルセロナパビリオンの建物を建設。この建物で使うための椅子も手がけました。それが有名な「バルセロナチェア」です。
建物は、万博終了後取り壊されましたが、1980年代後半に復元されて、ミース・ファン・デル・ローエの記念館として使われています。
ミース・ファン・デル・ローエは、モダニズム建築を代表するデザイナーで、“Less is more.” (より少ないことは、より豊かなこと)という標語でも知られています。柱と梁によるラーメン構造の均質な構造体が、その内部にあらゆる機能を許容するという意味のユニヴァーサル・スペースという概念を提示しました。
ル・コルビュジェフランク・ロイド・ライトと共に、近代建築の三大巨匠と言われている人物です。

 

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いろいろなデザイナーVol.2 ~ヨーゼフ・ホフマン~

家具照明等多くの物がインテリアに用いられています。それらは多くのデザイナーの手によって生み出されました。
このシリーズではそのデザイナー達をご紹介していきます。
第2回目は、モダンデザインへの道を切り拓いたウィーン分離派の創設者の一人「ヨーゼフ・ホフマン」(1870年~1956年)をご紹介します。
ヨーゼフ・ホフマンは1870年にチェコで生まれました。
チェコ共和国第2の都市ブルノにある国立工芸学校に学び、卒業後は軍事施設の建設局に勤めました。その後建設局を退局し、ウィーンの美術学校に進学。オットー・ワーグナーの下で腕を磨きました。
1897年にはオルブリッヒらとともにウィーン分離派を立ち上げることになります。ウィーン分離派の活動は、アーツ・アンド・クラフツ、アール・ヌーボーなどの影響を受け、モダンデザインへの道を切り開きました。分離派の中心メンバーとして活躍したホフマンでしたが、1905年にウィーン分離派を離脱します。分離派を脱退する直前には、仲間と共にウィーンに工房を設立し、多くの作品を制作しました。
ヨーゼフ・ホフマン
それ以降は長年にわたりウィーン芸術工芸学校で教鞭をとり、オーストリア工芸連盟の発起人の1人にもなっています。
1936年にウィーン芸術工芸学校を退いた後は年金生活に入ります。

ホフマンの様式は、現実的かつ実用的なものに絞られ、多くのデザイナーの手本にもなりました。それが、国際ビエンナーレのオーストラリア代表や芸術審議会の委員など、公的な役職を歴任したことにも表れています。

 

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いろいろなデザイナーVol.1 ~ミヒャエル・トーネット~

家具照明等多くの物がインテリアに用いられています。それらは多くのデザイナーの手によって生み出されました。
このシリーズではそのデザイナー達をご紹介していきます。
第1回目は、家具に大きな変革をもたらした曲木の技術を用いた椅子を制作した「ミヒャエル・トーネット」(1796年~1871年)をご紹介します。
ミヒャエル・トーネットミヒャエルトーネットは、ドイツ西部にあるボッパルトでなめし革業を営んでいたフランツ・アントン・トーネットの息子として1796年に生まれました。
建具職人の下で修行をした後、1819年に自身の家具工房を開設。
その後、積層材を用いた木材加工の研究を始め、木を蒸気で蒸して曲げる加工方法を開発します。
そして、1842年にこの曲木技術の特許を取得しました。
曲木技術を用いた家具が世界的にも有名な『No.14』(現在はNo.214)です。この椅子は世界で5000万脚以上が生産され、様々な場面で用いられています。(工業製品で最も成功した製品とも言われています。)現在も、カフェなどでよく見かけますよね。
No.14の開発後、1849年 ウィーンに工房を開設。現在のトーネット社の基礎を築きました。
それまで、オーダーメイドが主流だった家具の世界に、家具を量産するという近代的なシステムを作り上げたのもこのトーネットと言われています。
トーネットが研究していた積層材を用いた技術は、曲木だけでなくその後の家具業界にも大きな変革をもたらします。それが成型合板です。
成型合板を用いた家具はたくさん作られましたが、それはまたの機会に紹介いたします。
ハプセント

ミッドセンチュリーと活躍したデザイナー達。

世の中には様々な家具があります。
たくさんのデザイナー達が、様々な方法や素材を駆使して生み出してきた家具達。その中で、ミッドセンチュリーと言う言葉を聞いたことがある方は多いと思います。

今回はこのミッドセンチュリーについて書いていこうと思います。
簡単に訳すと「1世紀の中間」と言う意味になります。インテリアの世界では、本来の意味に加えて、20世紀の中ごろにデザインされたインテリア家具のことを指します。特に、1935年~1960年ごろに活躍したデザイナーたちは今でもファンが多く、たくさんの場所でそれらの家具が導入されています。
代表的なデザイナーではチャールズ&レイ・イームズアルネ・ヤコブセンイサム・ノグチ柳 宗理ジョージ・ネルソン等がその時代に活躍していました。同じ時代に生まれた家具たちはとても相性が良く、全く違う場所で生まれた家具でもしっかりとマッチしてくれます。
イームズこのミッドセンチュリーの中でも代表的なのがチャールズ&レイ イームズです。
イームズは夫婦で活躍した珍しいデザイナーで、成型合板を使った「LCW(loung chair wood)」や「イームズチェア」が良く知られています。

この他にも本当に多くのデザイナーたちが競い合うように作品を発表し、注目を集めました。とても活気があった時代だからこそ今でも注目を集め、好まれるデザインの家具が誕生したのでしょう!
正直私もこのミッドセンチュリーの時代の家具はとても大好きです。
また別の機会にイームズの詳しい説明や、それ以外の様々なデザイナーをご紹介していければと思います。

 

ハプセント

HAPSENT online リニューアルオープン!

今日(3月21日)、東京で桜の開花宣言がされました。

合わせたわけではありませんが、遅れていたHAPSENT online(ハプセント)を新しい商品構成でリニューアルオープンいたしました。
new HAPSENT
これからは、新しい商品のお知らせなど随時更新していきます。
今後ともよろしくお願い致します。

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